正義の味方ではなく調律者であれ

テレビかYouTubeなどの動画で、こんな場面を見ました。

 

 

 

役所でずっと待たされている方が、怒りを爆発させてしまった。

 

 

 

その場で、怒鳴り散らし暴れそうな状態。

 

 

 

そこに1人の別のお客さんが彼にこう言う。

 

 

 

「こんなことはやめなさい」

 

 

 

怒ったお客はさらにエスカレートする。

 

 

 

この状態で何が悪いのか?

 

 

 

これは、完全に正義と悪の構図が出来てしまったこと。

 

 

 

注意した側正義。怒った人悪という感じ。

 

 

 

私が疑問に思うのは、注意した人は、本当にこの場を

 

 

 

収めようとしたのか?という疑問なのです。

 

 

 

正義をやることを望んだのではないかと。

 

 

 

結果その通り、怒った人を悪人にすることで

 

 

 

正義の味方になれたわけです。

 

 

 

しかし、注意の本当の目的は、この場を収めることです。

 

 

 

怒った人にも怒った正義があったはずなのです。

 

 

 

そこを、無視して表面的な注意をすれば逆上することは目に見えてること。

 

 

 

本当にその場を収めるのであれば、怒った人の気持ちを

 

 

 

理解し寄り添うことです。

 

 

 

「あなたの気持ちわかるよ、こんなに待たされていたら

 

 

 

怒りたくもなるよね。でも怒ったらあなたが正しくても

 

 

 

悪者になってしまうから、まずは怒らず落ち着こう」

 

 

 

 

 

このように言ってあげたら、怒った人はどれほど救われたか。

 

 

 

私たちは、常に正義と悪で物事を見てしまう。

 

 

 

SNSなどは、自身の正義の押し付け合いで、

 

 

 

正義を振りかざした悪人だということが分からないのです。

 

 

 

 

本当の意味での正しさは、場の乱れたエネルギーの調律者になることなのです。

 

 

 

 

正しさとはときに、心を乱し傷つける凶器になります。

 

 

 

もちろん、状況によっては正しさを言わなければいけない場面もあります。

(この辺りは次のブログで書きます)

 

 

 

ただ、場を乱すことが悪だということ。

 

 

 

本物の正義とは、正しさをいうことではなく

 

 

 

場の調律者であることが最も大切なことなのです。