弱者という凶器で

弱者を装いながら、リーダー的な人間や組織に、暴言や嫌がらせをする人間が多い。

 

 

 

 

ちょっと前の、ニュースで高校生が先生に殴られた映像が、出回った。

 

 

 

 

最初は「なんて酷い先生なの!」という風潮があったが、

 

 

 

動画をよく見ると、生徒が先生に対し、ありえない暴言を吐いている様子が写っていた。

 

 

 

 

最近ではSNSが普及し、また世の中が正しさに厳しくなっている。

 

 

 

 

不徳な人間がさらに不徳になるこのシステムどうにかならないものだろうか?

 

 

 

 

「弱いものを守る」という正義感は大事だし、それを否定する気もない。

 

 

 

 

しかし、弱いものを守りすぎていることで、徳のない人間の暴走が始まっている。

 

 

 

 

 

私は、弱者には弱者の理由があると考える。

 

 

 

 

同業でも、大きなコネをもっている会社があるが、私は特にうらやましいとは感じない。

 

 

 

 

その会社の社長は、きっとそういう徳をもっているひとなのだ。

 

 

 

 

だから、私どもと同じような苦労はしなくてよい人なのである。

 

 

 

 

弱者が弱者に生まれた、もしくはそのままで居ることには意味があるのだ。

 

 

 

 

弱者で学ばなければならない、学びがそこにあるはず。

 

 

 

 

また、強者にも強者の学びがきっとある。

 

 

 

 

 

人は皆平等と言いながら、生まれながらに、環境や自身が持っているリソースが違う。

 

 

 

 

 

さらには、病気になる人ならない人もいる。

 

 

 

 

 

学びは平等ではない。だから、弱者を過保護にするのは、彼らの学びを

 

 

 

 

 

奪っていることになるのだ。

 

 

 

 

 

 

以前にも、書いたことがあるが、仏教の托鉢業というものがある。

 

 

 

 

 

 

これは、食べ物を恵んで頂く修行なのだが、釈迦は貧乏人から

 

 

 

 

回りなさいと、修行僧に言ったそうです。

 

 

 

 

 

それは、貧乏人ほど、不徳だからです。

 

 

 

 

だから、彼らに徳を積ませ、また徳の大事さを学ばせ、

 

 

 

 

人として成長させるお手伝いをしていたのです。

 

 

 

 

 

今の社会に、不徳な人間には介入することはなく、ただ関わらず、

 

 

 

 

 

相手にしない世の中になっている。

 

 

 

 

 

むしろ、介入でもしたら、こちらがひどい目にあってしまう。

 

 

 

 

 

弱者を守るのではなく、弱者に気付かせる社会が、発展的な社会では

 

 

 

 

ないかと、最近感じてならない。