救う心と手助けする心

先日、NLPトレーナー取得した同期との新年会がありました。

 

 

 

その中の1人の同期が、こんなことを話していた。

 

 

 

「NLO法人を立ち上げ、虐待を受けた子供たちを保護する施設を作りたい。」と

 

 

 

ここまでは良かったのだが、その後こんなことを言い出した。

 

 

 

「子供たちだけではなく、虐待した親たちもそこに住まわせたい。

 

 

 

誰が悪いということではなく、虐待した親にもそういった背景があり、

 

 

 

その人たちも被害者なのだ。私は全てを救いたい。だから出資してほしい」

 

 

 

 

これは、心を学んだ人間の落とし穴なのだ。

 

 

 

 

彼は、とっても良い人だし、彼を否定するつもりもない。

 

 

 

しかし、ものの見方が、一方的で色々な角度から見れないのだ。

 

 

 

 

確かに加害者になった人たちも、その人の人生を見たときには

 

 

 

 

被害者だったのだと思う。その人たちなりの苦しみが、虐待や犯罪などで

 

 

 

 

心のバランスを取ろうとしている。

 

 

 

 

しかし、それを「救う」という考え方はとっても危険なのだ。

 

 

 

 

その人たちが、自身が問題で自分自身が本気で変わりたいという

 

 

 

 

気持ちがあることが1番大切なのだ。

 

 

 

 

変化を求めていない人たちに、救うという考え方は大きなおごりであり、

 

 

 

 

逆にトラブルを起こすことになる。

 

 

 

 

我々、心を学び一般の人たちより心のことを知ったところで、

 

 

 

 

私たちは、無力だということを自覚し、変化を求める人たちに

 

 

 

 

手を差し伸べ、寄り添い、手出すけする心で接することしかできない。

 

 

 

 

主体は相手であり、変化を本気で求めた人間に限り、

 

 

 

 

私たちが学んだ、知識と技術、スキルが生きるのである。

 

 

 

 

 

人を救えるなどと勘違いしては絶対にいけない。

 

 

 

 

あくまで私たちは補助でしかなく、その人の人生の主導権はその人にしかないということ。

 

 

 

 

もし、人を救えるものがあるとするなら、それは神様しかいない。

自分なりでいい。

自分に自信がなかったり、自分を認められない人の多くは、自身の心の

 

 

 

ハードルに苦しめられている。

 

 

「ここまで、出来なければダメ」「こうならなきゃい認められない」など

 

 

 

心の中でいつも自身を否定している。

 

 

 

これは、他人から自分がどう見られているかという視点から

 

 

 

自身を評価できなくなる。

 

 

 

しかし、他人の評価ではなく、自身の評価が自分を苦しめているのだ。

 

 

 

こうなってしまうと、努力したことすら否定していることになる。

 

 

 

大事なのは努力し続けることで、大きな成果へと繋がっていく。

 

 

 

あのイチローも引退会見で

 

 

 

 

「他人より努力したなど、言えるわけがない。しかし、自分なりに努力をしてきた」

 

 

 

このような言葉を発していた。

 

 

 

全くその通りで、自身が出来ることをやって、それを自身が認めることで

 

 

 

努力が継続されていくのだ。

 

 

 

心も楽になるし、継続も苦ではなくなる。

 

 

 

よりよい、日常の中で成長し続けるには「自分なり」がとっても大事なことなのです。