メンタリングを場に立ってはいけない人

メンタリングやカウンセリングの仕事は

よく「学べば身につく技術」のように語られる。 質問の仕方。 フレームワーク。 言葉の選び方。 確かに、技術として学べる部分はある。 でも私はずっと思っている。 この領域の“能力”は、技術以前に決まっている。 それは、 覚悟と愛を持って、その現場に立ち続けてきたかどうかだ。 覚悟も愛もないまま、 どれだけ知識を学んでも、 現場では何も起きない。 ⸻ 少し前、実際に起きた出来事がある。 詳細は伏せるが、事実だ。 ある男性が、自分の強い意向のもとで再婚を進めていた。 再婚とは、本来「幸せになるための選択」のはずだ。 結婚という前提そのものが、 社会的にも感情的にも「ハッピー」であることを求められる。 ところが、その相手の女性は、 結婚の話が具体化するにつれて、 精神的に明らかに壊れていった。 ここには、誰が見ても分かる矛盾がある。 幸せになるはずの結婚と、 日に日に追い詰められていく心。 これは最初に読むべき、 極めて分かりやすいキャリブレーションだ。 にもかかわらず、 第三者として入った「メンター」は、 そのズレを一切読めなかった。 結果として、 その女性は翌日、自ら命を絶った。 ⸻ 後日、そのメンタリングを行った人物と、 私は食事をする機会があった。 彼はこう言った。 「彼女は、お嬢さんだったんだよ」と。 理由を聞くと、 「服を脱ぎっぱなしにするのが耐えられない、 そんなことを言っていた」と。 その瞬間、 私は背筋が凍る思いがした。 それは言葉をそのまま受け取る話ではない。 明確なメタファーだった。 逃げ場がない。 選択肢がない。 結婚という一本道に押し込まれている。 そうした恐怖の中での、 最後の抵抗の表現だった可能性が高い。 だが彼は、 そのメタファーを拾わなかった。 それ以前に、 「幸せなはずの結婚」と 「壊れていく心」という 二つの状態のズレ(キャリブレーション)すら読めていなかった。 ⸻ ここで、はっきりさせておきたいことがある。 私は、この女性を 一度もカウンセリングしていない。 直接話したこともない。 それでも私は、 少なくとも ・二つのキャリブレーション ・明確なメタファー が見落とされていることに気づいた。 ということは、何が言えるか。 実際のメンタリングの現場では、 キャリブレーションとメタファーは、 もっと、もっと大量に出ていたはずだ。 それを一つも拾えなかった。 これは、 「最善を尽くさなかった」という話ではない。 そもそも、この場に立つ能力がなかった という話だ。 ⸻ 私が言う「能力」とは、 資格や肩書きのことではない。 覚悟と愛を持って、人の人生と真正面から向き合い続けた結果、 後からついてくるものだ。 本気で救う覚悟を持ったことがあるか。 本気で相手の人生を背負う覚悟をしたことがあるか。 その経験を重ねていれば、 現場では自然と キャリブレーションもメタファーも見えてくる。 だがこの人物は、 そういう場所からずっと逃げてきた。 だからこの場面で、 何もできなかった。 何も見えなかった。 できないことそのものが、 この人の「在り方」を完全に表している。 ⸻ 分かりやすく言えば、こういうことだ。 格闘技のチャンピオンに憧れて、 チャンピオンぶっている。 口ではそれらしいことを言う。 だが実際には、 リングに上がったことがない。 修行もしていない。 恐怖と向き合ったこともない。 本当にリングに立ったことのある人間は、 相手のわずかな動きを 全神経で見ている。 パンチか、キックか。 踏み込みか、フェイントか。 だから避けられる。 だから反応できる。 この人物は、 そのリングに一度も立っていない。 なのに、 チャンピオンのふりをして、 人の人生の現場に立ってしまった。 それが、 私の怒りの正体だ。 ⸻ 私は特別な能力を持っているわけではない。 自分がすごいとも思っていない。 ただ一つ言えるのは、 本気で向き合えば、能力は必ず上がるということだ。 だがそれは、 覚悟と愛から逃げていない人間にしか起きない。 この人物には、 それが決定的に欠けていた。 だから私は、 この人はメンターとして やってはいけない人間だと断言する。 ⸻ メンタリングで、 絶対に欠けてはいけないものがある。 それは、 利他の心を伴った深い愛だ。 他人に対する深い愛を持てない人間が、 どれだけ技術を学んだとしても、 その手で人の人生を扱ってはいけない。 一方で、 もし高度な技術がなかったとしても、 深い愛をもって関わることは、 それだけで人を救う力になる。 この領域に立つ資格があるかどうかは、 スキルだけでは決まらない。 その人の人生を、 自分の人生と同じ重さで扱えるかどうか。 そして、 その心と覚悟を持った者であれば、 スキルは後から必ずついてくる。