弱さを認める強さが人生を変える

私はずっと、心が安定していなかった。
なぜなら、自分の人生なのに、いつの間にか他人の責任まで背負って生きてきたからだ。

しかも、その責任を背負い続ける人生には、終着点がなかった。
「ここまでやれば終わり」という線がどこにもない。
だからこそ、私は人の人生まで引き受け続けなければならなかった。

今ならはっきり分かる。
それは優しさでも、責任感の強さでもない。
自分自身の弱さだった。

自分がもっと成長しなければいけない。
もっと強くならなければいけない。
そう思うあまり、「自分の課題」と「他人の課題」の境界が曖昧になっていた。

さらに深いところには、
「強く生きなければ、人に愛されない」
という思い込みがあった。

だから、弱さを見せない。
誰かに頼らない。
全部自分で背負う。

そうやって生きてきた。

⸻

一方で、世の中には逆の苦しみ方をしている人もいる。
本当は守られたい。
本当は誰かに頼りたい。

でも、そんな自分を認められず、否定してしまう。
そして「人と対等であろう」とする。

経験値も、生き方も、背負ってきたものも違う相手にまで、無理に対等であろうとする。
それが、また別の苦しみを生む。

強く生きる人も、守られたい人も、
実はどちらも心の安定を失いやすい構造を持っている。

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私が変わるきっかけになったのは、
自分の弱さを認めることだった。

弱さを認めることは、負けることじゃない。
人生を前に進めることだし、人といい関係を築くために必要なことだった。

だから私は、「境界線」を持つようにした。
自分の責任と、他人の責任をきちんと分けるようにした。

それだけで、驚くほど心が安定していった。

⸻

守られたい生き方も、あっていい。
それ自体は、何も悪くない。

ただし、
自分の人生の責任だけは、自分で引き受けなければならない。

自分が選んだ生き方。
自分が選んだ選択。
そこから目を逸らさないこと。

その上で「守られる生き方」を選ぶのなら、それは立派な生き方だ。

なぜなら、人にはそれぞれリソースが違うからだ。
体力、精神力、環境、才能。
全部同じなわけがない。

だから、自分を知って、自分ができることをやればいい。
それだけでいい。

⸻

ここで、私が大好きな話を一つしたい。
アニメ『ワンピース』の麦わらのルフィだ。

ルフィは、こう言う。

「俺は一人じゃ生きていく自信がねえ」

海図も読めない。
剣も使えない。
料理もできない。
医療も分からない。
船も直せない。

それを堂々と宣言する。

でも彼は、誰かに媚びて生きていない。
誰よりも堂々としていて、誰とも対等だ。
偉くもなければ、下でもない。

仲間たちも同じだ。

ウソップは戦闘向きじゃない。
でも、彼の嘘が誰かを救う場面がある。

ナミは非力だ。
でも、彼女がいれば航海は成り立つ。

ゾロは最強の剣士だ。
でも方向音痴だ。

サンジは料理もできて戦闘能力も高い。
でも女性に弱い。

誰も完璧じゃない。
誰も卑屈じゃない。
そして誰も、上下で生きていない。

自分ができることを一生懸命やる。
できないことは、仲間に任せる。

もし今、
強く生きることに疲れているなら。
あるいは、守られたい自分を否定しているなら。
まずは、自分にできる役割を一つだけ、大切にしてみてほしい。

1月20日 19:19

メンタリングを場に立ってはいけない人

メンタリングやカウンセリングの仕事は

よく「学べば身につく技術」のように語られる。 質問の仕方。 フレームワーク。 言葉の選び方。 確かに、技術として学べる部分はある。 でも私はずっと思っている。 この領域の“能力”は、技術以前に決まっている。 それは、 覚悟と愛を持って、その現場に立ち続けてきたかどうかだ。 覚悟も愛もないまま、 どれだけ知識を学んでも、 現場では何も起きない。 ⸻ 少し前、実際に起きた出来事がある。 詳細は伏せるが、事実だ。 ある男性が、自分の強い意向のもとで再婚を進めていた。 再婚とは、本来「幸せになるための選択」のはずだ。 結婚という前提そのものが、 社会的にも感情的にも「ハッピー」であることを求められる。 ところが、その相手の女性は、 結婚の話が具体化するにつれて、 精神的に明らかに壊れていった。 ここには、誰が見ても分かる矛盾がある。 幸せになるはずの結婚と、 日に日に追い詰められていく心。 これは最初に読むべき、 極めて分かりやすいキャリブレーションだ。 にもかかわらず、 第三者として入った「メンター」は、 そのズレを一切読めなかった。 結果として、 その女性は翌日、自ら命を絶った。 ⸻ 後日、そのメンタリングを行った人物と、 私は食事をする機会があった。 彼はこう言った。 「彼女は、お嬢さんだったんだよ」と。 理由を聞くと、 「服を脱ぎっぱなしにするのが耐えられない、 そんなことを言っていた」と。 その瞬間、 私は背筋が凍る思いがした。 それは言葉をそのまま受け取る話ではない。 明確なメタファーだった。 逃げ場がない。 選択肢がない。 結婚という一本道に押し込まれている。 そうした恐怖の中での、 最後の抵抗の表現だった可能性が高い。 だが彼は、 そのメタファーを拾わなかった。 それ以前に、 「幸せなはずの結婚」と 「壊れていく心」という 二つの状態のズレ(キャリブレーション)すら読めていなかった。 ⸻ ここで、はっきりさせておきたいことがある。 私は、この女性を 一度もカウンセリングしていない。 直接話したこともない。 それでも私は、 少なくとも ・二つのキャリブレーション ・明確なメタファー が見落とされていることに気づいた。 ということは、何が言えるか。 実際のメンタリングの現場では、 キャリブレーションとメタファーは、 もっと、もっと大量に出ていたはずだ。 それを一つも拾えなかった。 これは、 「最善を尽くさなかった」という話ではない。 そもそも、この場に立つ能力がなかった という話だ。 ⸻ 私が言う「能力」とは、 資格や肩書きのことではない。 覚悟と愛を持って、人の人生と真正面から向き合い続けた結果、 後からついてくるものだ。 本気で救う覚悟を持ったことがあるか。 本気で相手の人生を背負う覚悟をしたことがあるか。 その経験を重ねていれば、 現場では自然と キャリブレーションもメタファーも見えてくる。 だがこの人物は、 そういう場所からずっと逃げてきた。 だからこの場面で、 何もできなかった。 何も見えなかった。 できないことそのものが、 この人の「在り方」を完全に表している。 ⸻ 分かりやすく言えば、こういうことだ。 格闘技のチャンピオンに憧れて、 チャンピオンぶっている。 口ではそれらしいことを言う。 だが実際には、 リングに上がったことがない。 修行もしていない。 恐怖と向き合ったこともない。 本当にリングに立ったことのある人間は、 相手のわずかな動きを 全神経で見ている。 パンチか、キックか。 踏み込みか、フェイントか。 だから避けられる。 だから反応できる。 この人物は、 そのリングに一度も立っていない。 なのに、 チャンピオンのふりをして、 人の人生の現場に立ってしまった。 それが、 私の怒りの正体だ。 ⸻ 私は特別な能力を持っているわけではない。 自分がすごいとも思っていない。 ただ一つ言えるのは、 本気で向き合えば、能力は必ず上がるということだ。 だがそれは、 覚悟と愛から逃げていない人間にしか起きない。 この人物には、 それが決定的に欠けていた。 だから私は、 この人はメンターとして やってはいけない人間だと断言する。 ⸻ メンタリングで、 絶対に欠けてはいけないものがある。 それは、 利他の心を伴った深い愛だ。 他人に対する深い愛を持てない人間が、 どれだけ技術を学んだとしても、 その手で人の人生を扱ってはいけない。 一方で、 もし高度な技術がなかったとしても、 深い愛をもって関わることは、 それだけで人を救う力になる。 この領域に立つ資格があるかどうかは、 スキルだけでは決まらない。 その人の人生を、 自分の人生と同じ重さで扱えるかどうか。 そして、 その心と覚悟を持った者であれば、 スキルは後から必ずついてくる。

占いは当たる?当たらない?信じる?信じない?

「占いって当たるんですか?」
「信じたほうがいいですか?信じないほうがいいですか?」

よく聞かれる質問だけれど、
正直に言うと、私はこの問い自体があまり好きじゃない。

なぜなら、
占いを“当たる・外れる”“信じる・信じない”という物差しで見ている時点で、
もう本質からズレていると感じるからだ。

占いには、
四柱推命や算命学のような占星術がある。
それが何千年前からあるのか、正確な年数は分からないけれど、
少なくとも言えるのは、
これは過去の人たちが人生の中で積み重ね、残してきた知恵だということ。

私は占いを、
「未来を当てる魔法」だとは思っていない。

ただ、
人生には流れがある。
これは、実感として確かにあると思っている。

だから私にとって占いとは、
信じる・信じないの対象ではない。
当たった・外れたと一喜一憂するものでもない。

占いは、
自分の人生の“絵図”を眺めるものだ。

もっと言えば、
人生という航海における「海図」のようなものだと思っている。

航海をしていれば、
台風もあるし、大雨の日もある。
波が荒れる日もあれば、
何事もなく穏やかに進む日もある。

でも、
海図を見たからといって、
台風そのものが消えるわけじゃない。

大事なのは、
その海図を見ながら、
自分がどう舵を取るか
どんな心持ちで航海を続けるか
そこに尽きる。

占いは、
「今日は運気が悪いから最悪だ」と落ち込むためのものじゃない。
「今日はいい運気だから何もしなくていい」と安心するためのものでもない。

あくまで、
自分がどう生きるかを考えるためのツールだ。

そして、これは少し厳しい言い方になるけれど、
占いを「当たる・当たらない」「信じる・信じない」と言い続けている人は、
そもそも――
自分の人生の舵を、自分で握っていない。

人生の責任を、
他人に、占い師に、運命に預けてしまっている。

「占いがこう言ったから」
「運命だから仕方ない」

それは一見、楽に見える。
でも同時に、
自分の人生を生きる覚悟を手放している状態でもある。

人生の舵を握るのは、
占いでも、運命でもない。
自分自身だ。

占いは、
舵を取る代わりに操縦してくれるものじゃない。
ただ、
「今、自分がどんな海域にいるのか」
「これからどんな流れに入っていきやすいのか」
それを静かに教えてくれるだけだ。

どう進むかを決めるのは、
いつだって自分。

 

占いを見るかどうかよりも、
自分の人生の舵を、誰が握っているのか。
本当に問われているのは、そこだ。