怒涛の1月と、それでも私が前を向いている理由 ― 政治の「構造」を可視化したいという、近い夢 ―

私にとって、この1月は怒涛の1ヶ月でした。
馬車馬のように働き、休みを返上し、ほとんど会社か現場にいる日々。

肉体的にも精神的にも、正直かなり削られました。
それでも、不思議と気持ちが落ちることはありませんでした。

「精神で、精神を支えながら乗り越えてきた」
そんな1ヶ月だったように思います。

なぜ、ここまで自分を追い込んでまで頑張っているのか。
それは、私の中に近い夢があるからです。

⸻

私の近い夢 ― 政治の「構造」を可視化したい

その近い夢とは何か。
それは、政治というものの構造を、誰にでも分かる形で可視化することです。

今、選挙が始まり、テレビでは党首討論が繰り返されています。
どの政党も、どの政治家も、耳障りのいい言葉を並べます。

けれど、ふと疑問に思いませんか。

「これだけ政治が語られているのに、
なぜ社会は一向に良くならないのか」と。

私は、その理由は
政治を“構造”として見ていないからだと思っています。

構造とは、
前提となっている仕組みや力関係、ルールのことです。

そしてそれは、
実は一番、政治家が表に出したくない部分でもあります。

しかし、本当に重要なのは、
その見えない部分ではないでしょうか。

⸻

誰かを叩いても、何も変わらない

私は、
どこの政党に入れと言いたいわけでもありません。
この政党が絶対に正しい、と主張したいわけでもありません。

例えば、裏金議員の問題。

あれは、
「悪い議員」を叩いて終わる話なのでしょうか。

私は、もっと根深いものがあると思っています。
個人の問題ではなく、
そうした行動が生まれる構造そのものです。

だからこそ、
有権者である私たち自身が、
その根っこを理解する必要がある。

そうでなければ、
同じことは何度でも繰り返されます。

⸻

構造を見なければ、判断はできない

自民党と経団連の関係。
自民党と財務省の関係。
さらに言えば、歴史的背景から見た日本とアメリカの関係。

国債発行は正義なのか、悪なのか。
「国の借金が増える」という言葉だけで、
本当に善悪を判断していいのでしょうか。

これらはすべて、
お金や権力の仕組みを構造的に見なければ理解できない話です。

だから私は、
私のような頭の悪い人間でも理解できる形で、
この構造を噛み砕いて伝えていきたいと思っています。

⸻

「財源がない」は、本当に事実なのか

政治家は、よくこう言います。
「財源がない」と。

でも、少し不思議に感じませんか。

アメリカの一声で、
60兆円、80兆円というお金は、
なぜかすぐに用意できる。

一方で、
消費税を廃止するには
「年間26兆円の財源が必要だ」と言われる。

80兆円あれば、
少なくとも3年間は消費税を廃止できます。

その3年間で、
経済がどう動くのかを
試験的に検証することはできるはずです。

もし、消費税を廃止して経済が回り、
結果的に税収が増えるなら、
そもそも消費税は必要なかった、という話になります。

※ここで言いたいのは、
単純な財源比較の是非ではありません。
「できない」とされていることが、
本当に不可能なのか。
それとも、政治的判断によって
そう扱われているだけなのか。
その構造に目を向けてほしいのです。

⸻

国債は、善か悪か

国債発行についても同じです。

ある政治家は言います。
「国債は次世代への借金だ」と。

別の政治家は言います。
「経済を良くするために必要だ」と。

なぜ、ここまで真逆の意見が出てくるのか。

それは、
私たちがお金の歴史や仕組み、前提を
十分に知らないからです。

構造を知れば、
国債発行が
「今やるべきものなのか」
「やってはいけないものなのか」
自分の頭で判断できるようになります。

そうなれば、
どの政党を応援すべきかも、
自然と見えてくるはずです。

⸻

なぜ「茶番」と言われるのか

国会は茶番だ、という言葉があります。

私は、その背景にも
この構造の問題があると思っています。

多くの政治家は、
本当は分かっている。
分かった上で、表面的な議論をしている。

党首討論を見ていても、
「本当は分かっているはずなのに」
そう感じる場面は少なくありません。

だからこそ、
構造を可視化し、
言葉だけでは誤魔化せない環境を
作らなければならない。

そうしなければ、
日本は徐々に力を失い、
外から都合よく扱われる国になっていくと、
私は本気で危惧しています。

⸻

構造を知ると、誰のための政治か?が見えてくる

構造を理解すると、
政治家が誰のために政治をしているのかが見えてきます。

誰もが
「国民のため」と言います。

でも、本当にそうなのか。
もし国民のためでないなら、
誰のための政治なのか。

それが、はっきりと分かるようになる。

私のような人間でも、
見極められるようになる。

そして、
日本人全体が政治に興味を持ち、
本物の政治家を選べる国民へと
成長していける。

私は、そう信じています。

⸻

だから、今、仕事を頑張っている

最後に。
なぜ私が今、ここまで仕事を頑張っているのか。

それは、
この構造を、
一般の人にも分かる形で可視化するために、
お金と時間を使いたいからです。

そのためにはまず、
自分の会社の業務をきちんと回し、
権限を委譲し、
自分の時間を生み出さなければならない。

時間を作り、
お金を作り、
そしてそのお金を、
構造を伝えるために使いたい。

微々たる力かもしれません。
でも、やらないより、やった方がいい。

そう信じて、
私は今日も、目の前の仕事に向き合い、
一歩ずつ前へ進んでいます。

弱さを認める強さが人生を変える

私はずっと、心が安定していなかった。
なぜなら、自分の人生なのに、いつの間にか他人の責任まで背負って生きてきたからだ。

しかも、その責任を背負い続ける人生には、終着点がなかった。
「ここまでやれば終わり」という線がどこにもない。
だからこそ、私は人の人生まで引き受け続けなければならなかった。

今ならはっきり分かる。
それは優しさでも、責任感の強さでもない。
自分自身の弱さだった。

自分がもっと成長しなければいけない。
もっと強くならなければいけない。
そう思うあまり、「自分の課題」と「他人の課題」の境界が曖昧になっていた。

さらに深いところには、
「強く生きなければ、人に愛されない」
という思い込みがあった。

だから、弱さを見せない。
誰かに頼らない。
全部自分で背負う。

そうやって生きてきた。

⸻

一方で、世の中には逆の苦しみ方をしている人もいる。
本当は守られたい。
本当は誰かに頼りたい。

でも、そんな自分を認められず、否定してしまう。
そして「人と対等であろう」とする。

経験値も、生き方も、背負ってきたものも違う相手にまで、無理に対等であろうとする。
それが、また別の苦しみを生む。

強く生きる人も、守られたい人も、
実はどちらも心の安定を失いやすい構造を持っている。

⸻

私が変わるきっかけになったのは、
自分の弱さを認めることだった。

弱さを認めることは、負けることじゃない。
人生を前に進めることだし、人といい関係を築くために必要なことだった。

だから私は、「境界線」を持つようにした。
自分の責任と、他人の責任をきちんと分けるようにした。

それだけで、驚くほど心が安定していった。

⸻

守られたい生き方も、あっていい。
それ自体は、何も悪くない。

ただし、
自分の人生の責任だけは、自分で引き受けなければならない。

自分が選んだ生き方。
自分が選んだ選択。
そこから目を逸らさないこと。

その上で「守られる生き方」を選ぶのなら、それは立派な生き方だ。

なぜなら、人にはそれぞれリソースが違うからだ。
体力、精神力、環境、才能。
全部同じなわけがない。

だから、自分を知って、自分ができることをやればいい。
それだけでいい。

⸻

ここで、私が大好きな話を一つしたい。
アニメ『ワンピース』の麦わらのルフィだ。

ルフィは、こう言う。

「俺は一人じゃ生きていく自信がねえ」

海図も読めない。
剣も使えない。
料理もできない。
医療も分からない。
船も直せない。

それを堂々と宣言する。

でも彼は、誰かに媚びて生きていない。
誰よりも堂々としていて、誰とも対等だ。
偉くもなければ、下でもない。

仲間たちも同じだ。

ウソップは戦闘向きじゃない。
でも、彼の嘘が誰かを救う場面がある。

ナミは非力だ。
でも、彼女がいれば航海は成り立つ。

ゾロは最強の剣士だ。
でも方向音痴だ。

サンジは料理もできて戦闘能力も高い。
でも女性に弱い。

誰も完璧じゃない。
誰も卑屈じゃない。
そして誰も、上下で生きていない。

自分ができることを一生懸命やる。
できないことは、仲間に任せる。

もし今、
強く生きることに疲れているなら。
あるいは、守られたい自分を否定しているなら。
まずは、自分にできる役割を一つだけ、大切にしてみてほしい。

1月20日 19:19

メンタリングを場に立ってはいけない人

メンタリングやカウンセリングの仕事は

よく「学べば身につく技術」のように語られる。 質問の仕方。 フレームワーク。 言葉の選び方。 確かに、技術として学べる部分はある。 でも私はずっと思っている。 この領域の“能力”は、技術以前に決まっている。 それは、 覚悟と愛を持って、その現場に立ち続けてきたかどうかだ。 覚悟も愛もないまま、 どれだけ知識を学んでも、 現場では何も起きない。 ⸻ 少し前、実際に起きた出来事がある。 詳細は伏せるが、事実だ。 ある男性が、自分の強い意向のもとで再婚を進めていた。 再婚とは、本来「幸せになるための選択」のはずだ。 結婚という前提そのものが、 社会的にも感情的にも「ハッピー」であることを求められる。 ところが、その相手の女性は、 結婚の話が具体化するにつれて、 精神的に明らかに壊れていった。 ここには、誰が見ても分かる矛盾がある。 幸せになるはずの結婚と、 日に日に追い詰められていく心。 これは最初に読むべき、 極めて分かりやすいキャリブレーションだ。 にもかかわらず、 第三者として入った「メンター」は、 そのズレを一切読めなかった。 結果として、 その女性は翌日、自ら命を絶った。 ⸻ 後日、そのメンタリングを行った人物と、 私は食事をする機会があった。 彼はこう言った。 「彼女は、お嬢さんだったんだよ」と。 理由を聞くと、 「服を脱ぎっぱなしにするのが耐えられない、 そんなことを言っていた」と。 その瞬間、 私は背筋が凍る思いがした。 それは言葉をそのまま受け取る話ではない。 明確なメタファーだった。 逃げ場がない。 選択肢がない。 結婚という一本道に押し込まれている。 そうした恐怖の中での、 最後の抵抗の表現だった可能性が高い。 だが彼は、 そのメタファーを拾わなかった。 それ以前に、 「幸せなはずの結婚」と 「壊れていく心」という 二つの状態のズレ(キャリブレーション)すら読めていなかった。 ⸻ ここで、はっきりさせておきたいことがある。 私は、この女性を 一度もカウンセリングしていない。 直接話したこともない。 それでも私は、 少なくとも ・二つのキャリブレーション ・明確なメタファー が見落とされていることに気づいた。 ということは、何が言えるか。 実際のメンタリングの現場では、 キャリブレーションとメタファーは、 もっと、もっと大量に出ていたはずだ。 それを一つも拾えなかった。 これは、 「最善を尽くさなかった」という話ではない。 そもそも、この場に立つ能力がなかった という話だ。 ⸻ 私が言う「能力」とは、 資格や肩書きのことではない。 覚悟と愛を持って、人の人生と真正面から向き合い続けた結果、 後からついてくるものだ。 本気で救う覚悟を持ったことがあるか。 本気で相手の人生を背負う覚悟をしたことがあるか。 その経験を重ねていれば、 現場では自然と キャリブレーションもメタファーも見えてくる。 だがこの人物は、 そういう場所からずっと逃げてきた。 だからこの場面で、 何もできなかった。 何も見えなかった。 できないことそのものが、 この人の「在り方」を完全に表している。 ⸻ 分かりやすく言えば、こういうことだ。 格闘技のチャンピオンに憧れて、 チャンピオンぶっている。 口ではそれらしいことを言う。 だが実際には、 リングに上がったことがない。 修行もしていない。 恐怖と向き合ったこともない。 本当にリングに立ったことのある人間は、 相手のわずかな動きを 全神経で見ている。 パンチか、キックか。 踏み込みか、フェイントか。 だから避けられる。 だから反応できる。 この人物は、 そのリングに一度も立っていない。 なのに、 チャンピオンのふりをして、 人の人生の現場に立ってしまった。 それが、 私の怒りの正体だ。 ⸻ 私は特別な能力を持っているわけではない。 自分がすごいとも思っていない。 ただ一つ言えるのは、 本気で向き合えば、能力は必ず上がるということだ。 だがそれは、 覚悟と愛から逃げていない人間にしか起きない。 この人物には、 それが決定的に欠けていた。 だから私は、 この人はメンターとして やってはいけない人間だと断言する。 ⸻ メンタリングで、 絶対に欠けてはいけないものがある。 それは、 利他の心を伴った深い愛だ。 他人に対する深い愛を持てない人間が、 どれだけ技術を学んだとしても、 その手で人の人生を扱ってはいけない。 一方で、 もし高度な技術がなかったとしても、 深い愛をもって関わることは、 それだけで人を救う力になる。 この領域に立つ資格があるかどうかは、 スキルだけでは決まらない。 その人の人生を、 自分の人生と同じ重さで扱えるかどうか。 そして、 その心と覚悟を持った者であれば、 スキルは後から必ずついてくる。