中道を歩むことが全ての成功の源

中道を歩むという言葉を知っているでしょうか?

 

 

 

これは仏教の教えの由来であり、快楽主義と苦行主義という

 

 

 

極端な生き方の考え方を避け、偏らずに調和を取れた考え方。

 

 

 

しかし、これはかなり奥が深く、非常に難しい考え方なのです。

 

 

 

言い方は違いますが、この考え方は偉人達も同じようなことを言っています。

 

 

 

 

例えば、私が人生の指針とする中村天風さんは、この真理を志向的な理解ベースではなく

 

 

 

腑に落ちたという感情ベースで理解したことで不治の病を克服しました。

 

 

 

中村天風さんがたとえ話として、上げていた宮本武蔵の話もそこになります。

 

 

 

宮本武蔵は殿様からこのように尋ねられたというのです。

 

 

 

「あなたが今まで戦った中で、この人は強いと思った人はいますか?」

 

 

 

宮本武蔵「私と戦った人間で弱い人がおられますか!

 

 

 

 

全員、剣術の使い手で、強い人ばかりです」

 

 

 

 

殿様「では、これはもしかして負けるのではと思った方はいますか?」

 

 

 

 

宮本武蔵「戦いにおいて、勝つ負けるを考えながら戦うことなどいたしません」

 

 

 

 

これこそが中道を歩むなのです。

 

 

 

私たちは勝ち負けに焦点が合ってしまいます。

 

 

 

 

しかし、勝でも負けるでもない状態が結果を出すということ。

 

 

 

 

もっと深く話すと、戦うということは、無意識には勝つことが前提です。

 

 

 

侍ですので、負ければ命の保証がないのです。

 

 

 

ですから、無意識レベルでは勝つがあります。しかし意識レベルで勝敗を

 

 

 

意識すれば、恐怖や雑念が出ることで、良い結果が出にくくなるという考え方です。

 

 

 

ですから、わかりやすく言うと、勝敗に意識するのではなく、どのような戦い方

 

 

もしくはどのように勝つかを意識しているのです。

 

 

 

ここが大きく違うのが分かるでしょうか?

 

 

 

人間が恐怖に支配されるのは、負けることを想像しそれを増幅させることで

 

 

 

 

現実がそのようになります。

 

 

 

 

中村天風も日清戦争、日露戦争の時には

 

 

 

 

死ぬことに恐怖が無かったとのこと。

 

 

 

 

当時不治の病の肺結核にかかったときは、死への恐怖に支配されたというのです。

 

 

 

 

そして、インドにわたり修行することで真理と哲学を手に入れました。

 

 

 

そのことで、病気が治る治らないを意識することではなく、

 

 

 

今日1日をどのように生きるかという視点に変えたのです。

 

 

 

先ほども言ったように無意識の前提は、人間である以上生きるという

 

 

 

無意識は発動しています。しかし死を意識するのではなく

 

 

 

生きている今、この瞬間こそが大切だという考えに変わったのです。

 

 

 

死はだれにでも訪れます。それは長いか短いかの話であり

 

 

 

人間が関与出来ないところでもあります。

 

 

 

だから、生きているこの瞬間が大事だということに気付いたのです。

 

 

 

天風はこのようなことを言っています。

 

 

 

病気になったとしても、病気を意識して生きていなければ

 

 

 

病気じゃないのと同じ。逆に病気じゃなくても常に病気を意識して

 

 

 

生きている人は、病気と同じと。

 

 

 

 

子の思考が、現実を引き起こすということなのです。

 

 

 

 

現に、天風はこの不治の病を克服し93歳まで生きました。

 

 

 

私は恥ずかしながら、これが腑に落ちたのはここ最近(数年)なのです。

 

 

 

知識的にはもっと前から理解はしてました。しかし腑に落ちたのは最近です。

 

 

 

 

いつも仕事の恐怖を抱え苦しみ、悩み、いら立ちを持っていました。

 

 

 

 

そのことで、業界的に厳しくなったここ数年は、私たちも影響をうけました。

 

 

 

しかし、会社が潰れるを意識すれば、やはりその道が明確になります。

 

 

 

しかし、最近の私は、どう発展するかという

 

 

 

問いを自身に持つようになったのです。

 

 

 

そう、会社経営は発展するという無意識の前提の中

 

 

 

それをどのように発展させるかというフェーズを持つようになりました。

 

 

 

これこそが中道を歩むということなのです。

 

 

 

 

若い方の恋愛の相談や人間関係でよく多いのが、

 

 

 

また人に裏切られるのではないか?

 

 

 

自分は捨てられるのではないか?

 

 

 

という、無意識の問いがあるのです。

 

 

 

この問いを持っている以上、その懸念は現実になります。

 

 

 

ですから、本来はこの無意識の問いをこう書き換えるのです。

 

 

 

私は、この人の関係をどのような発展させるのか?もしくは

 

 

 

どのような形の幸せを得ていくのだろうかと。

 

 

 

そのようなマインドセットが出来る人は、非言語、行動

 

 

もっと言えば、自身の体の使い方、筋肉への力みなどすべてが

 

 

 

大きく変わり、望む現実へと動いていきます。

 

 

 

人生の殆どの悩みは、自身が想像した恐怖が支配します。

 

 

 

どのような状況でも、人生の勝者当然邸の中、どのように勝つのかを

 

 

 

意識して生きると、人生は好転します。

 

 

 

これは、私だけの哲学ではなく、過去の偉人たちと

 

 

 

共有している哲学だということです。

絶対的正しさと相対的正しさ

前回のブログで「正義の味方ではなく調律者であれ」

 

 

 

というお話をさせて頂きました。

 

 

 

この話をもっと深く話をすると、私が思う正しさには

 

 

 

2重構造になっていると考える。

 

 

 

これは、タイトルの通り絶対的正しさと相対的正しさに分かれる。

 

 

 

絶対的正しさとは何かというと、生きる目的、人間観、価値観、行動原理

 

 

 

などを自身が言語化でき理解しているかということ。

 

 

 

その為に自身の哲学、生きるための土台の価値

 

 

 

判断基準の原則が必要となる。

 

 

 

私は、人に介入するときはこの価値観と行動がズレていたり間違っている

 

 

 

場合のみ行う。

 

 

ときには強い口調でいう場合もあるし、優しくうながす言い方をする場合もある。

 

 

 

これは、相手の状態を見て使い分けをするが、どちらにしても根底には

 

 

 

相手を想う「愛」で動かされることが殆どなのです。

(心理カウンセリングなどメンターモードのときのみです)

 

 

 

また、相対的な正しさとは、相手の心や状況に合わせるということ。

 

 

 

先日の怒った人に正しさを伝えるのではなく、気持ちわかるよと

 

 

 

寄り添いや相手に対しての理解のこと。

 

 

 

 

また、先ほど話した、相手によって強く言う場合と

 

 

 

優しく言う場合の使い分けも、相対的正しさから来ている。

 

 

 

これは状況を把握する力が必要になります。

 

 

 

その為には、観察する力、非言語を読む能力、

 

 

 

心を読む想像力が必要になる。

 

 

 

そして、私が尊敬する過去の偉人たちもこの2重構造の正しさを

 

 

 

理解していた人たちなのです。

 

 

 

また、現在世界NO1コーチのアンソニーロビンズも

 

 

 

このことを理解し、人を導いています。

 

 

 

正しさとは表面的なものではなく、奥深く人が人生をかけて

 

 

 

学ぶ哲学なのかもしれません。

正義の味方ではなく調律者であれ

テレビかYouTubeなどの動画で、こんな場面を見ました。

 

 

 

役所でずっと待たされている方が、怒りを爆発させてしまった。

 

 

 

その場で、怒鳴り散らし暴れそうな状態。

 

 

 

そこに1人の別のお客さんが彼にこう言う。

 

 

 

「こんなことはやめなさい」

 

 

 

怒ったお客はさらにエスカレートする。

 

 

 

この状態で何が悪いのか?

 

 

 

これは、完全に正義と悪の構図が出来てしまったこと。

 

 

 

注意した側正義。怒った人悪という感じ。

 

 

 

私が疑問に思うのは、注意した人は、本当にこの場を

 

 

 

収めようとしたのか?という疑問なのです。

 

 

 

正義をやることを望んだのではないかと。

 

 

 

結果その通り、怒った人を悪人にすることで

 

 

 

正義の味方になれたわけです。

 

 

 

しかし、注意の本当の目的は、この場を収めることです。

 

 

 

怒った人にも怒った正義があったはずなのです。

 

 

 

そこを、無視して表面的な注意をすれば逆上することは目に見えてること。

 

 

 

本当にその場を収めるのであれば、怒った人の気持ちを

 

 

 

理解し寄り添うことです。

 

 

 

「あなたの気持ちわかるよ、こんなに待たされていたら

 

 

 

怒りたくもなるよね。でも怒ったらあなたが正しくても

 

 

 

悪者になってしまうから、まずは怒らず落ち着こう」

 

 

 

 

 

このように言ってあげたら、怒った人はどれほど救われたか。

 

 

 

私たちは、常に正義と悪で物事を見てしまう。

 

 

 

SNSなどは、自身の正義の押し付け合いで、

 

 

 

正義を振りかざした悪人だということが分からないのです。

 

 

 

 

本当の意味での正しさは、場の乱れたエネルギーの調律者になることなのです。

 

 

 

 

正しさとはときに、心を乱し傷つける凶器になります。

 

 

 

もちろん、状況によっては正しさを言わなければいけない場面もあります。

(この辺りは次のブログで書きます)

 

 

 

ただ、場を乱すことが悪だということ。

 

 

 

本物の正義とは、正しさをいうことではなく

 

 

 

場の調律者であることが最も大切なことなのです。