神様はいるのか?

神様はいるのか。

この問いに意味があるかどうかは正直わからない。

「いる」と言う人もいれば、
「いない」と言う人もいる。

私は「いる」と思っている。

しかし、ここで重要なのは存在の話ではない。

神様という言葉を使った瞬間、
人はそれぞれまったく違うものを思い浮かべている。

願いを叶える存在。
救ってくれる存在。
守ってくれる存在。

だが、もし神様というものが本当にあるのだとすれば、
そんな都合のいい存在であるはずがない。

私の中での神様の定義は、かなり冷たい。

神様とは、助けを求める対象ではなく、
「助けを求めない人間にこそ力を貸す存在」である。

祈る人間ではない。

すがる人間でもない。

自分の人生を、自分で引き受けた人間。

そういう人間にだけ、世界は静かに追い風を吹かせる。

多くの人は誤解している。

神様は優しい存在だと思っている。

違う。

神様は極めて公平で、極めて残酷だ。

努力をしているかどうかではない。

善人か悪人かでもない。

本物かどうか。

ただそれだけを見ている。

稲森和夫という人物が語っていた「神様」や「目に見えない力」。

あの言葉に重みがあったのはなぜか。

彼は誠実に生きてきた。

覚悟を持ってきた。

責任から逃げなかった。

神様を信じたから成功したのではない。

成功するしかない生き方を選び続けたからこそ、
神様という言葉が嘘にならなかった。

神様はご褒美を与えない。

だが、嘘の人生には力を貸さない。

この構造は、実はどこにでも転がっている。

以前、カウンセリングでこんな女性がいた。

現在進行形で風俗嬢として働き続けながら、
彼女はこう言った。

「私は本当に男運がないんです」

その瞬間、私は思った。

それは男運ではない。

構造の問題だ。

自分自身を大切にしていない。

自分の価値を、自分で切り売りしている。

自分を安く扱っている人間が、
他人から高く扱われることを期待する。

これは祈りではない。

幻想である。

世界はそんなふうにはできていない。

自分を粗末に扱う人間を、
他人が丁寧に扱う理由など存在しない。

にもかかわらず、

問題を「男運」という外側の概念に置いた瞬間、
人生のハンドルは完全に他人へと手渡される。

なぜ私は軽く扱われるのか。

なぜ私は騙されるのか。

この問いを世界に向けている限り、
答えは永遠に手に入らない。

問うべき相手は、常に自分自身だ。

なぜ私はその扱いを許してしまうのか。

なぜ私は自分をその位置に置いているのか。

この問いから逃げ続ける限り、
どれだけ神様に祈ろうが、現実は一ミリも変わらない。

だが、ここで誤解してはいけないことがある。

過ちのある人生は、決して罪ではない。

本当の問題は別のところにある。

自分の過去ではない。

自分の選択でもない。

自分の愚かさに気づかないこと。

そして――
気づいてなお、自分から目を逸らし続けること。

これだけが、人間を本当に不幸にする。

神様は、過ちを犯した人間を見捨てない。

そんな単純な存在ではない。

むしろ逆だ。

自分の生き方を、自分の問題として受け止めた瞬間。

自分の人生から逃げるのをやめた瞬間。

その瞬間から、人間の人生は明確に変わり始める。

ここが決定的な分岐点である。

私は断言する。

自分の愚かさを認めた人間。

自分の未熟さを引き受けた人間。

自分の責任を真正面から抱えた人間。

その瞬間から、その人はすでに
「神様のご加護をいただける生き方」へと入っている。

神様とは奇跡を起こす存在ではない。

人生の向きを変えた人間にだけ、
静かに道を開く存在である。

人生は、過去では決まらない。

向きで決まる。

どれだけ過ちを重ねてきたとしても、

どれだけ遠回りをしてきたとしても、

どれだけ自分を傷つけてきたとしても、

自分の人生を引き受けた瞬間から、
世界の反応は確実に変わる。

これが神様の構造だ。

過ちのある人生は問題ではない。

言い訳を続ける人生こそが問題なのだ。

自分の過去を呪い続ける限り、
苦しみは終わらない。

しかし、

自分の過去を受け入れ、
自分の在り方を修正しようとした瞬間、

人はすでに救いの側へ立っている。

神様のご加護とは、

許しではない。

再出発の資格でもない。

覚悟を決めた人間に対する、
世界の当然の反応である。

神様を信じるかどうか。

それは宗教の話ではない。

自分の人生を、どこまで引き受ける覚悟があるか。

その問いと、ほぼ同義なのだと思う。