多くの人が、大きな勘違いをしている。 それは 「能力がないと自分には価値がない」 と思ってしまうことだ。 しかし、これは大きな間違いだ。 確かに世の中には、ほんの数%、特別な能力を持った人がいる。 生まれながらにして頭がいい人、センスのある人、何をやってもうまくいく人。 しかし、ほとんどの人間はそうではない。 特別な能力など持っていない、ごく普通の人間だ。 それでも人は、自分の生き方次第で 自分の能力を開花させることができる。 なぜなら能力というものは、 その人の人となりから作られていくものだからだ。 --- 能力が発揮できる場所 最近、営業マンの求人を出していた。 レジュメには希望年収700万円と書いてあった。 しかし履歴書を見ると、希望年収は300万円になっていた。 年齢は50代。 30年近く同じ会社に勤めていた人だった。 ただ、その会社を辞めたあと、次の会社は4ヶ月で辞めている。 私は履歴書を見て、あることを感じた。 希望年収を700万円から300万円まで下げている。 これはつまり、今の就職活動があまりうまくいっていない可能性が高いということだ。 人は本当に余裕があるとき、ここまで年収を落とすことはあまりない。 だから私は、この人は今かなり厳しい状況にいるのだろうと理解した。 同時に、こうも考えた。 この人はおそらく、前の会社では能力を発揮できていた。 しかし環境が変わると能力が出ないこともある。 人間というのは、 場所によって能力が発揮できることもあれば、できないこともある。 だからこそ私は、彼と面接をすることにした。 実際に話してみると、営業のノウハウはしっかり理解していた。 経験もあり、一定の能力は感じられた。 しかし私は、能力だけではなく その人の人となりを見ていた。 --- 人となりは必ず表れる 面接の中で、私は少し踏み込んだ話をした。 普通の面接ではあまり話さない、 会社の営業手法や現状なども伝えた。 そして最後に、 「前向きに採用を考えています」 というニュアンスの言葉を伝えた。 これは一つのテストでもあった。 そのとき、その人がどういう反応をするのか。 そこに人となりが表れるからだ。 すると彼はこう言った。 「私も他に面接の予定が何社もありますので、 お返事には少し時間がかかると思います。」 この瞬間、私は違和感を覚えた。 履歴書の内容から考えても、 彼は決して強い立場にいるわけではない。 むしろ、かなり厳しい状況にいる可能性が高い。 それにも関わらず、 自分を大きく見せるようなマウントを取ってきた。 もし私が逆の立場だったらどうするだろうか。 まず素直に 「ありがとうございます」と伝える。 そして仮に他の会社の面接があったとしても、 その場でそれを言う必要はない。 もし本当に伝えなければならない状況があるとすれば、 それは採用の連絡をいただいた後だ。 しかし彼は、その場でそれを言った。 つまり彼は、 自分が弱い立場でありながら、強く見せようとした。 これは「自信がない人の自己防衛」からくる、対等感を出す
人間の心理が出たのである。
あくまで雇い主と雇われの関係。
根底にどんな心理状態があるにしろ、
自分の立場をわきまえ、謙虚さを持つべきなのだ。 --- 問題を自分に向けない人 数日後、私は彼にお断りの連絡をした。 すると彼から、こんな返信が来た。 「私はもう50歳を過ぎていますし、 若い営業マンの方が御社には良いと思います。 御社のご発展をお祈りしております。」 一見すると、聞き分けのいい文章に見える。 しかしこれは 問題を自分に向けていない典型的な形だ。 勝手に理由を作り、 勝手に完結してしまっている。 これは男女関係でもよくある。 別れ話になったとき、男性がこう言う。 「俺みたいな男より、 もっとイケメンで仕事ができる男の方が似合うよね。」 しかし女性からすれば、そういう話ではない。 この言葉を聞いた瞬間、 「やっぱり別れてよかった」と感じることも多い。 なぜか。 問題を自分に向けていないからだ。 勝手な想像で話を作り、 そこで完結してしまっている。
問題を外に向け、自分に向けられないことを
この文章で証明したのである。 これでは人は成長できない。 --- もう一人の営業マン 過去に、もう一人印象的な営業マンがいた。 彼は飛び込み営業が出来る人間だった。 それが彼の強みである。 しかし彼は、自己肯定感が非常に低い人間でもあった。
周りには異常に大きく見せるのが得意で、
一見、完璧で何でもできる人間を演出するのが
上手い人間でもあった。
実は、彼はADHDもしくはアスペルガー気質を持っており
強い部分と弱い部分の差が大きい人だった。 例えば、小学校レベルの計算が出来ない。 見積もりや数量の把握も苦手だった。
表などに自身の行動をまとめることも出来なく
基本学ぶことをせず、今あるリソースだけで、
誤魔化す仕事をしていた。 しかし、私はそれを見抜いていた。 学ぶ姿勢がないことには、頭を悩ましたが
彼の弱さも理解した上で
そこを否定するのではなく、 彼の強みで戦えばいいと考えていた。 弱いところはフォローすればいい。 しかし彼はそれを受け入れられなかった。 それでも弱さを隠し、 自分を大きく見せようとする。 そしてうまくいかないと、 会社のせい 他人のせい 社長のせい にしてしまう。 これはすべて 自分の弱さと向き合えない構造から生まれている。 もし彼が自分の弱さを素直に出せていたなら、 私はいくらでもフォローした。 しかしそれは 環境の問題ではなく、本人の心の問題だった。 結局、彼は逃げるように会社を辞めていった。 --- 本当の能力とは何か 多くの人は、能力そのものに価値があると思っている。 しかしそれは違う。 能力とは、 人となりの結果として現れるものだ。 素直さ。 謙虚さ。 責任感。 そして 自分の弱さを認める勇気。 これこそが、 人間の最も強い能力である。 --- 最後に 実は私自身も、能力のある人間ではない。 むしろ自己肯定感も低く、 自分のプライドで自分を守ってきた人間だ。 ただ一つだけ強かったものがある。 それは、自分の人生への責任感だった。 だからこそ必要なときには 恥をかいても 格好悪くても 頭を下げて教えを乞う そういうことをしてきた。 その積み重ねが、 今の自分を作っている。 プライドの強い人は、 きっと多くの傷を負ってきた。 その気持ちはよくわかる。 しかし、その痛みから目を背けたままでは 人は本当の意味で幸せな生き方が出来ない。 自分の弱さを受け入れるという、強さを持ち 素直に学び続けること。 それこそが、 本当の能力を作る唯一の方法である。 そしてもう一つだけ言いたい。 人は、弱さを隠したときに成長が止まり、 弱さを認めた瞬間から、本当の人生が動き始める。
神様はいるのか?
神様はいるのか。 この問いに意味があるかどうかは正直わからない。 「いる」と言う人もいれば、 「いない」と言う人もいる。 私は「いる」と思っている。 しかし、ここで重要なのは存在の話ではない。 神様という言葉を使った瞬間、 人はそれぞれまったく違うものを思い浮かべている。 願いを叶える存在。 救ってくれる存在。 守ってくれる存在。 だが、もし神様というものが本当にあるのだとすれば、 そんな都合のいい存在であるはずがない。 私の中での神様の定義は、かなり冷たい。 神様とは、助けを求める対象ではなく、 「助けを求めない人間にこそ力を貸す存在」である。 祈る人間ではない。 すがる人間でもない。 自分の人生を、自分で引き受けた人間。 そういう人間にだけ、世界は静かに追い風を吹かせる。 多くの人は誤解している。 神様は優しい存在だと思っている。 違う。 神様は極めて公平で、極めて残酷だ。 努力をしているかどうかではない。 善人か悪人かでもない。 本物かどうか。 ただそれだけを見ている。 稲森和夫という人物が語っていた「神様」や「目に見えない力」。 あの言葉に重みがあったのはなぜか。 彼は誠実に生きてきた。 覚悟を持ってきた。 責任から逃げなかった。 神様を信じたから成功したのではない。 成功するしかない生き方を選び続けたからこそ、 神様という言葉が嘘にならなかった。 神様はご褒美を与えない。 だが、嘘の人生には力を貸さない。 この構造は、実はどこにでも転がっている。 以前、カウンセリングでこんな女性がいた。 現在進行形で風俗嬢として働き続けながら、 彼女はこう言った。 「私は本当に男運がないんです」 その瞬間、私は思った。 それは男運ではない。 構造の問題だ。 自分自身を大切にしていない。 自分の価値を、自分で切り売りしている。 自分を安く扱っている人間が、 他人から高く扱われることを期待する。 これは祈りではない。 幻想である。 世界はそんなふうにはできていない。 自分を粗末に扱う人間を、 他人が丁寧に扱う理由など存在しない。 にもかかわらず、 問題を「男運」という外側の概念に置いた瞬間、 人生のハンドルは完全に他人へと手渡される。 なぜ私は軽く扱われるのか。 なぜ私は騙されるのか。 この問いを世界に向けている限り、 答えは永遠に手に入らない。 問うべき相手は、常に自分自身だ。 なぜ私はその扱いを許してしまうのか。 なぜ私は自分をその位置に置いているのか。 この問いから逃げ続ける限り、 どれだけ神様に祈ろうが、現実は一ミリも変わらない。 だが、ここで誤解してはいけないことがある。 過ちのある人生は、決して罪ではない。 本当の問題は別のところにある。 自分の過去ではない。 自分の選択でもない。 自分の愚かさに気づかないこと。 そして―― 気づいてなお、自分から目を逸らし続けること。 これだけが、人間を本当に不幸にする。 神様は、過ちを犯した人間を見捨てない。 そんな単純な存在ではない。 むしろ逆だ。 自分の生き方を、自分の問題として受け止めた瞬間。 自分の人生から逃げるのをやめた瞬間。 その瞬間から、人間の人生は明確に変わり始める。 ここが決定的な分岐点である。 私は断言する。 自分の愚かさを認めた人間。 自分の未熟さを引き受けた人間。 自分の責任を真正面から抱えた人間。 その瞬間から、その人はすでに 「神様のご加護をいただける生き方」へと入っている。 神様とは奇跡を起こす存在ではない。 人生の向きを変えた人間にだけ、 静かに道を開く存在である。 人生は、過去では決まらない。 向きで決まる。 どれだけ過ちを重ねてきたとしても、 どれだけ遠回りをしてきたとしても、 どれだけ自分を傷つけてきたとしても、 自分の人生を引き受けた瞬間から、 世界の反応は確実に変わる。 これが神様の構造だ。 過ちのある人生は問題ではない。 言い訳を続ける人生こそが問題なのだ。 自分の過去を呪い続ける限り、 苦しみは終わらない。 しかし、 自分の過去を受け入れ、 自分の在り方を修正しようとした瞬間、 人はすでに救いの側へ立っている。 神様のご加護とは、 許しではない。 再出発の資格でもない。 覚悟を決めた人間に対する、 世界の当然の反応である。 神様を信じるかどうか。 それは宗教の話ではない。 自分の人生を、どこまで引き受ける覚悟があるか。 その問いと、ほぼ同義なのだと思う。
