物事の見方で変容する

この階層で説明をすると、階層ごとで悩む問題が変わってくるのだ。

 

 

例えば、環境レベルでは、「自分は貧しい家に育ったから、大学に行くのは無理だ。」

 

行動レベルでは「自分が受験するくらいなら、大学に行かなくてもいいや。」となる。

 

 

また、同じレベルの階層では、問題解決が出来ないのだ。

 

 

例えば、信念・価値観レベルで阪神ファンと巨人ファンが喧嘩をしている。

 

 

 

どちらが正しいのだろうか?

 

 

 

 

これに正しさは無い。

 

 

 

 

自己認識の上にはスピリチュアルという階層がある。

 

 

 

これは、自分以外のものを指す。他人や宇宙規模の全てのものだ。

 

 

 

 

この阪神ファンと巨人ファンの喧嘩を止めさせるのは、

 

 

 

価値観からこのスピリチュアルに持っていく必要がある。

 

 

 

 

例えば、この2人にこんなことを言う人がいたらどうだろうか?

 

 

 

 

 

「あなたたちは、好きな球団は違っても、プロ野球というものを愛しているのは一緒ですね。

あなた達のような、熱烈なファンが居るから、このプロ野球界は存続できるのですね。

 

 

 

 

これからも一緒にプロ野球を盛り上げてくださいね。」

 

 

 

と言われたらどうでしょうか?

 

 

 

 

この2人の使命は同じだと気付くのです。

 

 

 

 

そして、仲間だと感じられるようになるかも知れません。

 

 

 

 

これが、階層を超えたアプローチの仕方になるわけです。

 

 

 

 

 

同じ階層では解決が出来ないことも、階層を変えアプローチすると、理解し合えることが

 

 

 

 

多くあるということなのです。

 

 

 

 

これを知っても、日常で使えるのは難しいかもしれません。

 

 

 

 

しかし、頭の隅にでも置いといてもらうと、アプローチの仕方が変わってくるかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感謝の言葉が人を幸福にさせる。

先日、知り合いの女性と話をしているとこんなことを言っていた。

 

 

彼女は、老人ホームの厨房で働いている。

 

 

「お年寄りは、食道が弱っているから食事を作るのが大変なの。

 

 

 

先日もスイカを出すのに、種を全部取って出してあげたのよ。」

 

 

 

と彼女は笑顔で話していた。

 

 

 

私以外にもう1人いた男が心無いことを言う。

 

 

 

「だったら、スイカなんか出さなきゃいいじゃん」

 

 

 

笑顔だった彼女の顔がくもり、

 

 

 

「だって、季節のもの食べてもらいたいじゃない」

 

 

 

私は、彼女の表情をずっと見ていた。

 

 

 

言葉では大変な話をしているが表情は笑顔だったのだ。

 

 

 

これは心理学でキャリブレーションといい、言葉とそれ以外の五感が一致していない状態を言う。

 

 

 

 

私は彼女に

 

 

 

 

「楽しそうだね。」

 

 

 

 

というと、

 

 

 

 

「そうなの、楽しいの。」

 

 

 

 

と言葉が返ってきた。

 

 

 

心の無い隣の男は、意味がわかっていない。

 

 

 

言葉で大変だと言っていたのに、楽しいと彼女が言いだしたのだ。

 

 

 

 

私はそれを説明するように話をした。

 

 

 

「彼女はきっと、おじいさんやおばあさんに、感謝やねぎらいの言葉をかけられているんだよ。

 

 

 

ありがとうとかスイカ食べられて嬉しいとかね。」

 

 

 

というと彼女が

 

 

 

 

「そうなの。ありがとうって言われるの」

 

 

 

と満面の笑みで応えてくれた。

 

 

 

感謝やねぎらいを言うことで他人が幸せになるということは、

 

 

 

頭で分かっていた。

 

 

 

 

しかし、彼女の笑顔を見てこれほどまでに幸福な気持ちになれることを

 

 

 

 

目の当たりにした。

 

 

 

 

自分は社員にねぎらいや感謝の言葉をかけていなかったな~と反省。

 

 

 

 

気持ちがあっても、なかなか言葉に出来ないものだ。

 

 

 

 

少し意識して、ねぎらえる自分になろう。

 

当然なことが出来ないことを理解できない人

当然なことが出来ない。

 

 

それは誰もが知っている。

 

 

当の本人も知っているのだ。

 

 

もちろん会社組織などで、それが出来なければ、解雇になるかもしれない。

 

 

 

ただ、私が言っているのはもっと単純なこと。

 

 

 

例えば、これをやれば成功に繋がるのに出来ないとか、

 

 

 

ある人を好きになりたいが好きになれないなど。

 

 

 

その裏には、成功するがリスクを冒す恐怖。

 

 

 

 

さらには人を好きになれない心の大きな問題が邪魔をする。

 

 

 

 

それは当人にとって苦しいこと。

 

 

 

 

それを打ち明けることさえ、大変なことなのだ。

 

 

 

しかし、それを打ち明けた相手が「それはダメでしょ」と相手を否定してしまえば、

 

 

 

打ち明けた本人はさらに苦しくなってしまう。

 

 

 

先日、エリートサラリーマンの同級生とあった。

 

 

 

彼からすると、私の肩書や置かれている立場などに妬みが出たのだろう。

 

 

 

私は一筋縄ではここまでいかなかったことを話した。

 

 

 

もちろん、どうしようもない心の苦しみや葛藤も。

 

 

 

しかし、それをあっさりと否定してきた。

 

 

 

当然だが、物事の良し悪しは分かっている。ただそれだけではない、

 

 

 

心の葛藤があることを理解することが出来ないとは・・・

 

 

 

どこかで、自分が上に立ちたかったのだろう。

 

 

 

世の中、当然のように物事が判断できれば、病む人はいなくなる。

 

 

 

しかし、置かれた状況や育った環境で、心が葛藤していることが

 

 

 

理解できなければ、他人の痛みなど全く理解できないのだ。

 

 

 

子供に勉強しなさいと怒鳴りつける親は多い。

 

 

 

 

私の親もそうだった。

 

 

 

 

勉強をしなければいけないことは、どの子どもたちも分かっているのだ。

 

 

 

親は勉強をしろと怒鳴りつけることが楽だからそれをする。

 

 

 

しかし、本当にしなければいけないのは、勉強に向かえない子供の気持ちを理解し何が邪魔を

 

 

 

しているかを見ていくことの方が重要なのだ。

 

 

 

 

問題は表面に起こっていることではない。

 

 

 

 

その裏側にある心の問題を解き気付くことなのだ。