仕事が評価される基準

仕事がないという業者は、必ず理由がある。

 

 

人となりが良くても、金額が安くても仕事がない人はないのだ。

 

 

そこにはちゃんとした理由がある。

 

 

 

また、勤めている人で、こんなことを言う人がいる。

 

 

 

「頑張っているのに評価されない。」

 

 

 

「言われたことをやっているのに怒られる。」

 

 

 

今回お話しするのは、勤めている人が、どのような形で組織に評価

 

 

 

 

されるかをお話しします。

 

 

 

 

私は大きく分け3段階あると思っています。

 

 

 

 

まず、1段階目は、勤務態度。

 

 

 

これは、組織のルールを守り、その組織を信じているかどうかだ。

 

 

 

 

 

そんなの当り前だと思うかもしれないが、

 

 

 

 

実は、これが出来ない人は多い。

 

 

 

 

自分勝手な仕事をする。また自身の自己重要感から

 

 

 

 

協調性のない態度や格好をする人がいる。

 

 

 

 

さらには、自分が良ければいいなど、自己中心的な行動が目立つ人。

 

 

 

 

どんなに仕事ができたとしても、1段階目のこの部分が

 

 

 

 

出来ない人は、遅かれ早かれ、そこから消えてしまう。

 

 

 

 

2段階目は、言われた仕事しかできない。

 

 

 

これは、責任能力が極めて低い。

 

 

 

 

自身で考えて行動することが出来ない。

 

 

 

 

優秀な使いっぱしり以上にはなれないタイプだ。

 

 

 

3段階目は組織の目的から行動の意図を酌み行動できる。

 

 

 

これが出来れば、プレイヤーのトップからプレイングマネージャー

 

 

 

さらにはマネージャーまで、進むことが出来る。

 

 

 

 

その段階には、表現の仕方や戦略などの実務的なスキルは

 

 

 

 

 

必要となってくるが、まずは、「目的から意図を酌む」という

 

 

 

 

 

意識が無意識レベルに落ちてこないと、そこにたどり着けることはない。

 

 

 

 

 

私が今まで見てきた中で感じるのは10人に1人この考え方を持っていれば

 

 

 

 

 

良い方だと感じる。

 

 

 

 

 

当然、実践レベルでのスキルが優先されることは大きいが、

 

 

 

 

そこは、あくまでも今を生きるためのスキルであり、

 

 

 

 

未来的なものではない。

 

 

 

 

逆に言えば、それ以上の飛躍や成長は望めないものだ。

 

 

 

 

成長というものは、未来的な仕事が出来るかどうかにかかってくる。

 

 

 

 

ずいぶん前に聞いた話だが、Googleは全社員に、今の仕事と未来の仕事を

 

 

 

 

させているらしい。

 

 

 

 

頑張ること、もしくは言われたことをやる、というのは、

 

 

 

 

厳しい言い方をするが当たり前なのだ。

 

 

 

 

これは、私が厳しいからではなく、このような考え方が

 

 

 

 

出来なければ、この世の中で成果を出すことが出来ないのだ。

 

 

 

 

組織を問題視するまえに、自身がどのレベルで仕事をしているか、

 

 

 

 

 

見つめなおすことも大切だと思う。

上から目線

今日、テレビをつけていると、あるコメンテーターが、ある団体を上から目線だと話していた。

 

 

その団体の考え方は、成功者は弱者を助けるものだという教えらしい。

 

 

なるほど、そのような捉え方もできるのか。と私は思ってテレビを見ていました。

 

 

そのコメンテーターも「これは私の嫉妬です」と言っていたので

 

 

批判的な言葉ではないのは分かった。しかし、捉え方をもう少し変えてみる必要が

 

 

 

あるのではと私は思った。

 

 

 

もしこれが、上から目線であれば、必要な上から目線である。

 

 

 

しかし、私は上から目線だとは捉えない。

 

 

 

それよりも、自分を知っていると捉えた方が大事だと思うからだ。

 

 

 

経済的成功を収めた人が、経済的な支援をすることは、リソースを生かしていると考えられる。

 

 

 

自身を知って、自身のリソース(資源、強み)で行動をしているに過ぎない。

 

 

 

お笑い芸人のリソースを使い、人を笑わせることをする。

 

 

 

医者が、自身のリソースを知り、患者を助けると同じだと思うのだ。

 

 

 

もっと、日常でいえば、この人に話すと、いつも肯定的な言葉が返ってくる。

 

 

 

そのことで、精神的報酬が頂ける。

 

 

 

役割と考えた方が合理的だと思うのだ。

 

 

 

言葉の表現で、良いことも悪いものと捉えられてしまう。

 

 

 

適切な言葉を選ぶよう気を付けなければいけないと改めて感じた。

弱者という凶器で

弱者を装いながら、リーダー的な人間や組織に、暴言や嫌がらせをする人間が多い。

 

 

 

 

ちょっと前の、ニュースで高校生が先生に殴られた映像が、出回った。

 

 

 

 

最初は「なんて酷い先生なの!」という風潮があったが、

 

 

 

動画をよく見ると、生徒が先生に対し、ありえない暴言を吐いている様子が写っていた。

 

 

 

 

最近ではSNSが普及し、また世の中が正しさに厳しくなっている。

 

 

 

 

不徳な人間がさらに不徳になるこのシステムどうにかならないものだろうか?

 

 

 

 

「弱いものを守る」という正義感は大事だし、それを否定する気もない。

 

 

 

 

しかし、弱いものを守りすぎていることで、徳のない人間の暴走が始まっている。

 

 

 

 

 

私は、弱者には弱者の理由があると考える。

 

 

 

 

同業でも、大きなコネをもっている会社があるが、私は特にうらやましいとは感じない。

 

 

 

 

その会社の社長は、きっとそういう徳をもっているひとなのだ。

 

 

 

 

だから、私どもと同じような苦労はしなくてよい人なのである。

 

 

 

 

弱者が弱者に生まれた、もしくはそのままで居ることには意味があるのだ。

 

 

 

 

弱者で学ばなければならない、学びがそこにあるはず。

 

 

 

 

また、強者にも強者の学びがきっとある。

 

 

 

 

 

人は皆平等と言いながら、生まれながらに、環境や自身が持っているリソースが違う。

 

 

 

 

 

さらには、病気になる人ならない人もいる。

 

 

 

 

 

学びは平等ではない。だから、弱者を過保護にするのは、彼らの学びを

 

 

 

 

 

奪っていることになるのだ。

 

 

 

 

 

 

以前にも、書いたことがあるが、仏教の托鉢業というものがある。

 

 

 

 

 

 

これは、食べ物を恵んで頂く修行なのだが、釈迦は貧乏人から

 

 

 

 

回りなさいと、修行僧に言ったそうです。

 

 

 

 

 

それは、貧乏人ほど、不徳だからです。

 

 

 

 

だから、彼らに徳を積ませ、また徳の大事さを学ばせ、

 

 

 

 

人として成長させるお手伝いをしていたのです。

 

 

 

 

 

今の社会に、不徳な人間には介入することはなく、ただ関わらず、

 

 

 

 

 

相手にしない世の中になっている。

 

 

 

 

 

むしろ、介入でもしたら、こちらがひどい目にあってしまう。

 

 

 

 

 

弱者を守るのではなく、弱者に気付かせる社会が、発展的な社会では

 

 

 

 

ないかと、最近感じてならない。