「人生はまやかしである」
こう書くと、お金も仕事も恋愛も、この現実世界には価値がない、と言っているように聞こえるかもしれない。
しかし、私が言いたいのはそういうことではない。
私たちは生命としてこの世に生まれた以上、「欲」を持っている。
お金が欲しい。豊かになりたい。認められたい。愛されたい。いい家に住みたい。いい車に乗りたい。
私は、この欲そのものを悪いものだとは思わない。
むしろ欲があるから人は努力し、成長する。
お金が欲しいなら、どうすれば正当にお金を得られるのかを考えればいい。能力を高め、社会の仕組みを学び、人に価値を提供する。
愛されたいなら、自分を磨けばいい。見た目を整え、身体を鍛え、人間力を磨く。
欲は、人間を前へ進ませる大きなエネルギーになる。
ただ、ここに人生の落とし穴がある。
人間は、目の前の欲求に「まやかされる」ことがある。
目の前の欲と、人生全体で欲しいものは違う
人間は、その瞬間その瞬間では目の前のものが欲しくなる。
お金が欲しい。
できれば楽をして稼ぎたい。
愛する人が欲しい。
できれば相手の気持ちを自分だけに向けておきたい。
そういう気持ちが出ること自体を、私は否定する必要はないと思っている。
人間なのだから、そんな欲が出るのは当たり前だ。
しかし問題は、その欲を満たすために自分がどう生きるのかである。
お金が欲しいからといって、人を騙していいのだろうか。
お金を失いたくないからといって、自分の信念を曲げ続けていいのだろうか。
愛する人を失いたくないからといって、その人を束縛し、支配し、自分の思い通りにしていいのだろうか。
その瞬間だけを見れば、それで欲しいものを手に入れられるかもしれない。
しかし人生の最後から振り返ったとき、
「私は本当に、こういう人間として生きたかったのだろうか」
という問いが残るのではないだろうか。
私は、ここに「まやかし」の正体があると思っている。
手に入れたものと、自分の価値は違う
もう一つ、人間がまやかされやすいものがある。
それは、外側にあるものを自分自身の価値だと思ってしまうことだ。
「年商30億円の会社を経営している自分だから価値がある」
「美しい女性から愛されている自分だから価値がある」
「お金を持っている自分だから価値がある」
こうなると、幸せになるために手に入れたものが、今度は失ってはいけないものへ変わる。
成功したら、成功者であり続けなければならない。
愛されたら、愛され続けなければならない。
評価されたら、評価され続けなければならない。
私は、これも「まやかし」だと思っている。
お金がまやかしなのではない。
成功も、愛も、豊かさも、まやかしではない。
それらによって自分自身の価値まで決まると思ってしまうことが、まやかしなのだ。
明石家さんまさんを見て思うこと
このことを考えたとき、私が思い浮かべるのが明石家さんまさんである。
誰もが知る、日本を代表する成功者の一人だ。
しかし20歳のさんまさんが、70歳になった自分が今のような地位や名誉や財産を持っている姿を想像していただろうか。
私は、そうではなかったのではないかと思う。
彼が追いかけていたものは、もっと単純だったのではないだろうか。
人を笑わせたい。
人が笑ってくれることが嬉しい。
そして、それをしている自分自身が楽しい。
自分が本当に好きなことを知っていた。
それをひたすら続けた。
その結果として、地位も名誉もお金も後からついてきた。
そして私は、さんまさんの本当のすごさはその後にあると思っている。
成功が大きくなっても、その成功そのものを「自分」にしなかったように見えることだ。
もちろん本人の内面は本人にしか分からない。
しかし、あれほど長く第一線にいながら、周囲の人間がいるから自分が力を発揮できるという謙虚さを失わず、70歳を超えてなお人を笑わせ続けている。
もし地位や名誉そのものが自分になれば、人間はそれを守ることに必死になる。
やがて、人に喜んでもらうことより、自分の地位を守ることが目的になる。
本来、人に価値を与えることで得た成功が、人から奪ってでも成功を守る生き方へ変わってしまう。
そこから人生の歪みが始まるのだと思う。
極端な話、もし明日、さんまさんから地位も名誉も財産もすべてなくなり、四畳半の部屋で暮らすことになったとしても、私はそれだけで彼が不幸になるとは思わない。
四畳半なら四畳半で、人と話し、人を笑わせ、自分も笑い、その生活の中で面白いことを見つけるのではないだろうか。
なぜなら幸せの中心が、「何を持っているか」ではなく、自分が何をして生きることを喜びとするのかにあるように見えるからだ。
最後に残るのは「どう生きたか」
稲盛和夫さんは、生まれたときよりも少しでも魂を向上させて死んでいくことが人生の意味だ、という趣旨のことを語っていた。
私は、この考え方が好きだ。
人生の最後に、会社も、お金も、家も、車も、肩書も持っていくことはできない。
だからといって、それらを求めることに意味がないわけではない。
大いに求めればいい。
お金を稼ぎたい。
成功したい。
愛されたい。
豊かになりたい。
自分の可能性を試したい。
それでいい。
しかし、人生の最後に自分自身が振り返るものは、手に入れたものの数だけではないと思う。
その人生の中で、自分はどう生きたのか。
お金のために、自分の信念を曲げ続けたのか。
それとも正当にお金を求めながら、自分の信念も守ったのか。
愛する人を失いたくないから支配したのか。
それとも怖さを抱えながらも、相手を一人の人間として愛したのか。
失敗や裏切りや不本意な出来事によって、自分まで歪んでしまったのか。
それとも、それらを経験しながら、自分という人間を成長させたのか。
その積み重ねが、最後には「自分はこの人生を生きてよかった」という満足になるのではないだろうか。
まやかされる人生か、まやかしの中を生きる人生か
私は、人生から欲をなくす必要はないと思っている。
むしろ欲を持って、現実を思い切り生きればいい。
ただし、欲しいものを手に入れるために、自分自身まで売り渡してはいけない。
自分の価値を、お金や地位や愛情や周囲からの評価だけに預けてもいけない。
何者でもない自分にも価値がある。
その自分が、欲を持ち、挑戦し、愛し、稼ぎ、失敗し、成長していく。
そして時々、自分に問いかける。
「これは本当に、私が生きたい人生なのか」
目の前の欲求だけを見れば、楽な道を選びたくなることもある。
何かを失うのが怖くて、自分の信念を曲げたくなることもある。
しかし、その瞬間の欲求にまやかされ続けて人生を終えるのか。
それとも、まやかしの存在を知った上で、自分の信念を持ってこの世界を生きるのか。
私は、この二つには大きな違いがあると思っている。
人生はまやかしである。
だから現実を捨てるのではない。
まやかしだと知った上で、欲も現実も受け入れながら、自分自身を失わずに生きる。
そして最後に、
「いろいろあったけれど、自分は自分の人生を生きた」
そう思える人生でありたい。
私は、それこそが本当の意味で、自分の生命を生きるということではないかと思って
